ジョージワシントン

「競馬はロマンだ」と声高らかに言及すれば失笑を買うのが、昨今の競馬である。
それほどまでに、競馬はマネーゲームの場と化している。
良血馬は投機対象物件となり、種牡馬入りして成功すれば、購入金額の数十倍もの金を産み出してくれる。もちろん、競走馬として一定水準以上の良績を残すのが大前提ではあるが。
レースと交配による馬匹改良。
競馬はこの両輪を軸として回り続け、天文学的な泉布をばら撒きながらその回転の度合いを強めている。平たく言ってしまえば、競馬の進化は市場経済の活性化に連結する、というわけである。
日本は世界でも稀な高額賞金国であるため、名誉に殉ずるホースマンよりも、レース賞金をどれだけ稼げるかに重点を置く関係者が多数を占めているように思う。内国の名馬はもとより、毎年導入される種牡馬が使い捨てのように扱われている現状を見るに、あながち的外れともいえないのではないだろうか。
これが海外、とりわけ欧州においては価値観が逆転する。未だにあちらは、レースの格を重んじる傾向にある(とは言っても、マイル~中距離のステイタスが高くなっている世界の潮流に乗ってはいるが)。当然ながらそれに目を付け、名馬を量産するような名種牡馬を売り込む生産者も存在する。彼らは世界の主要な大レースを、後のグレートサイヤーを売り込むプレゼンの場として利用している。
その最たる例が、クルーモアスタッドのビジネス展開であろう。
クルーモアが目指しているのは、中距離を軸としてオールアラウンドに活躍する名馬である。万能の力量を有する精子を求めて、世界中から種付けのオファーがかかるのを待つために。
どう見ても欧州の芝血統の馬をBCクラシックに毎年送り込んでいるのは、そういう背景があるからである。芝でもダートでも通用する能力、とりわけハイレベルな凌ぎあいが展開されているアメリカにおいて結果を残せば、絶好のセールスポイントとなるのである(この場合、アルカングのことは忘れてあげること)。
一流の成績、そこに流行の血統構成が加われば、「商品」として全く問題は無い。あとは金が落ちてくるのを口を開けて待っていればいいだけである。
まったくもって、世知辛い。

ある一頭の馬がいた。
父親は、今やサドラーズウェルズに代わって欧州の競馬シーンを席巻しつつあるデインヒル。しかしデインヒルは2003年に逝去している。
兄には2002年のワールドシリーズチャンピオンのグランデラがおり、血統のよさは折り紙付きである。
ジョージワシントン。それが彼に付けられた名前である。
自身も優れた競走能力を有し、アイルランド2000ギニー、クイーンエリザベスII世Sをはじめとする4つのGIレースに勝利している。2006年のBCクラシックで6着に敗れたのを最後に現役を引退。悠々自適の種牡馬生活へと入った。
しかし、予期せぬ事態が彼を襲う。
いくら種付けを行っても、受胎しない。
検査の結果、生殖能力に異常があることが判明したのだ(とは言ってもシガーのように完全な不妊症ではなく、わずかながらも受胎が確認されてはいる)。
競馬とは、絶え間ない生産の輪廻の上に成り立っている。では、その輪から外れた者はどうするのか。
欠陥がある以上、どの国へも売ることはできない。かと言って無駄飯を食わせる余裕もない。となると、辿る道は一つ。
現役復帰、である。

一旦繁殖入りした馬の現役復帰という例は、非常に稀というわけでもない。現に、アラジの子を宿した状態でGIを勝ったウインドインハーヘアの例もあるのだから(とは言っても、これはどういう経緯で種付けが行われたのか明瞭ではないのだが)。
日本においても、牝馬として初のダービー制覇を成し遂げたヒサトモの例がある。彼女は子出しが悪く、繁殖成績もまったく振るわなかった。
そのため、引退から10年の時を経て地方競馬で現役復帰を果たし、南関東で2勝を上げている。
だが、10年の空白期間が彼女から競走に耐えうる心肺機能を奪い去ったのか、ヒサトモは調教中に死亡することになる。
もっとも、当時の日本は戦時中ということもあり、馬資源が圧倒的に不足していた時期でもあった。1ヶ月の間に5戦というローテーションも苛酷ではあるが、これまた当時の価値観からすればごく普通の使い方なのである。

ジョージワシントンは現役のステージに戻ってきた。
入れ替わるようにスタッド入りしたのは、なんと3歳になったばかりでクラシック有力候補と目されていたホーリーローマンエンパイア。父が同じデインヒルということで、代打という形というわけだ。
同期の馬たちがクラシックを戦っている中、彼は年上の牝馬たちの胎に種を注いでいたのである。まあ、これはこれで幸せなのかもしれないが。
若き性豪の誕生はさておき、この話の主役はジョージワシントンである。
6月のアスコットで彼は復帰緒戦を迎える。レースはGIクイーンアンS。堂々の一番人気である。しかし、ジョージワシントンは4着。人気を裏切る形となった。
それ以降も勝てないレースが続く。
エクリプスS3着。
ムーランドロンシャン3着。
大敗はしないものの、徐々に勝ち馬との着差は開いていく。走りに精彩を欠いているのは明らかだった。
欧州競馬が終わり、クルーモア陣営はジョージワシントンをアメリカへ送り込む。
前年に大敗した、BCクラシックへ。

というわけで、今年のブリーダーズカップ(以下BC)である。
新たに3レースが加わり、より一層カオス感が強まったように思えるBC。一気にカテゴリーを増やしすぎて、却ってレースバリューが低下しちゃうんじゃないかと他人事ながら心配になる。
それでも、ドラマは生まれる。
ジュヴェナイル、ジュヴェナイルフィリーズ共に無敗の王者が誕生したり。
スプリントでは、一番人気を背負ったMidnight Luteが、短距離戦にもかかわらず4馬身半という圧勝劇を演じたり。
はたまた、Smart Street産駒が2つのタイトルを掻っ攫ったり。
しかもその2つのタイトルが、最高峰ともいえるクラシックとターフだったり。
そして……そのクラシックでCurlinが栄光のゴールを駆け抜けた一方、天国への階段を駆け上がった馬が1頭いたり。

ジョージワシントン、予後不良。

競馬はビジネスである。
これは今やグローバルスタンダードと断じてもいいだろう。
だがそれを支えるのは、やはりロマンなのではないだろうか。
戦中の競馬場で没した前述のヒサトモだが、半世紀の時を越えた今もその牝系は脈々と続いている。
いや、続いているばかりではない。
彼女の6代後の子孫には、かの名馬トウカイテイオーがその名を連ねているのだ。
競馬という物語は、どこに伏線が張られているのか皆目見当がつかない。だからこそ面白い、という声もあるが。
僅かに残されたジョージワシントンの子供たちがどんな物語を紡ぐのか、それはそれで楽しみである。