いつもみています

つうかこれ、今年一発目の日記じゃね?
ゆとり世代じゃないのにゆとり全開とか、マジありえない。
まあ、本来こんな馬鹿が言うのも何だけど、ネットは馬鹿が多い気がする。
たとえば、乳揉みしだいて股全開にした画像を貼って「毎晩一人エッチはさみしい><誰か慰めて><」
なんてレスを入れようものなら、
「俺なんてどうよ。あ、俺チンコでかいよ」とか
「真剣にお付き合いさせていただきたいです。必ず満足させます」とか、
池に餌を放ったときの鯉のごとく、下半身充血男がわさわさ釣れる。
あるいは、Yahoo知恵袋に
「とばし携帯が欲しいんですけど、どこで手に入りますか?」
なんつう、お前明らかに来るとこ間違えてるよ、と突っ込みたくなる質問が寄せられる。
blogやmixiに犯罪行為としか思えない武勇伝を得意げに書いちゃって、結果として炎上を招く。
日常では遭遇したくてもなかなかお目にかかれない奇人変人が、
ネット上には無数に出没している。毎日がカーニバル状態だ。

インターネットは今、web2.0の時代である。そろそろweb3.0の時代が到来するとか言われているが、本質は一緒である。
つまり、「誰もがネット上の知的資産の構築に参加でき、それを無料ないしは廉価で共有できる世界」なのである。
従来のメディア、またはネットの揺籃期において、情報とは限られた一部が提供し、多数無限大が享受するという構造だった。それが、blogの普及やSNSの発達などによって大きく揺らいだ。
それに大きく寄与したのは、ネットが持つ匿名性であろう。顔も素性も知られていないなら好き勝手言っても構わないだろう、という考えが蔓延したのである。本来、ネットにおいても言動責任は伴うし、巨大化して社会に対しても甚大なる影響を及ぼしているのだから責任の放棄など罷り通らないのだが、「言論の自由」を取り違えちゃっている輩が少なくない。つうかかなり多い。
その最たる例が、6月から頻発した犯行予告逮捕である。
逮捕者は「ここまで騒ぎになるとは思わなかった」「目立ちたかった」などという刹那的な理由を並び立てている。自分の言動がどのような結果を招くか、という想像すらしていない。
これは単に思考力の欠如ではなく、ネット特有の仮面性による責任意識の欠如が引き起こしたことなのである。
インターネットは、無数の参加者による仮面座談会のようなものである。相手の素性も顔もわからないし、また同時に自分の素性・顔が知られることも無い。だから、気軽に爆弾発言を投下してしまうのである。IPログを解析して所在地を割り出すことなど容易なのだから実社会で同様の行為をしたときよりも遥かに短時間で確実に露呈してしまうことなのに、なぜか「ばれやしないだろう」という思考が働くのだから理解できない。
しかも、こうした愚行は、インターネット上では遍く伝播する。すると、今までは一部の人間しか知りえなかった状況を、不特定多数の人間が知るようになったのである。もちろん、日本国内に留まらず、世界規模での話である。既存メディアでは限定的にしか伝え切れなかった(あるいは、恣意的に伝えようとしなかった)情報が、包括的かつ多角的に共有されるようになった。
恐らく、今回の北京オリンピックにしても、ネットが無かったらここまで実情が明るみに出ることも無かったろうし、昨今問題になっている韓国の反日運動にしても朝日や毎日あたりが戦犯意識を日本人に突きつけて嫌韓感情が芽生える土壌すら潰していただろう。
ネット出現直前まで、日本のジャーナリズムは太平洋戦争時の大本営発表となんら変わっていなかったのである。ソース信頼度のヒエラルキーの頂点には、新聞が鎮座しいてた。その版図を塗り替えたのがインターネット、換言すれば、インターネットを利用している名も無き不特定多数の情報発信者たちだったのである。
もはや、メディアの既得権は消失し、印象操作や世論誘導がし辛い状況にある。だが今度は、そういった工作の手段がネットに摩り替わりつつある。組織的な工作であっても、誰が発言したのか外部からでは分からないネット上においては、「世間一般的な見解」と捉えられてしまう危険性を孕んでいるのだ。
これは怖い。「嘘を嘘を見抜けない人間は、掲示板を使うことは難しい」と言ったのはひろゆきだが、それがネット全般に波及しつつある。両の眼で真贋を見極める、もののけ姫のアシタカの気概が必要になってきているのだ。
俺も気をつけなきゃいけない。もう、無料動画の文字に踊らされて、ワンクリック詐欺に引っかかることがないようにしなければ。
��注:2回引っかかってます。当然、金なんざ払う気すらありません)

強迫観念

あー、800文字怪談の新作書かなきゃ。
あー、HP用のも書かなきゃ。
あー、あっためてた長編にも着手しなきゃ。
あー、あそこのサイトの900万ヒット記念絵も描かなきゃ。
あー、そこのクリスマス企画の絵も……。

なんだかやらなきゃいかんことがてんこ盛りです。
つか、その前にタイヤ履き替えろよ、て話なんだけどね。

近況報告

生きております。こんばんわ、もやしです。

【職】
本日(11/12)現在、未だ求職中でございます。
うわー、NEET生活長え。

今は、職業訓練を主宰していた会社から仕事を貰って口過ぎをしているのが現状。1サイト10万とかで請け負っております。
まだ貯蓄が残ってるから焦ってはいないけど、そろそろ職に就かないと仕事勘を忘れそう。やべーな俺。

【創作】
今年も「てのひら怪談」へ拙作が掲載されることが決定しますた。
もうゲラも送り返したし、プロフィールも送信済み。
例によって、てのひらでは別の筆名を使ってるんだけど……プロフィールを見る人が見たら一目でわかるという素敵仕様。
どこまでも三枚目にしかなれない哀しい男なのです、俺は。

【ゲーム】
「完美世界」から遠のいて3ヶ月。
久々にINしてみたら、インフレが進行しまくり。もうね、普通に10m単位でトレードが飛び交ってんの。どこのバブルですかよ、と。

つうか、正式オープンから半年ちょいでこの現状はやばいだろ。

平均レベルは80~90くらいみたい(完美のレベルキャップは105)だし、物価は休止前の倍以上に跳ね上がってるし、金(課金アイテムを買うためのチケット。1金=100円)はゲーム内通貨(以下coin)400k↑で取引されてるし。

極力coinを掛けず、サクサクキャラを育てることができる仕様は、短期的に見れば良仕様だと思う。あくまでも、短期的に見れば、だけど。
これが長期的にはどうなるか。分かりますね。
まず、デザインの段階で、ユーザーがcoinを浪費しなくてもいいくらいの快適性がある、て時点でまずい。
リネ2の場合は、あえてマゾい仕様(レベル上がりづらい&装備品高すぎ)にすることによって、ユーザーがより快適性を得ようとしてアデナを浪費する方向へと誘導しているわけだ。それがspsやOEや精錬システムであって、これらはサーバ内の彼方へと消えていく。
物価の上昇度はゆるやかで、なおかつクリスタライズそいうシステムによって、装備品の相場も安定する(もっとも、ライトユーザーにとっては金銭の工面は苦しいってのが現状だけど。まあ、開始から3年半経ってるしね)。

一方完美は、金を掛けずともそれなりの効率で狩りをすることが可能。精錬失敗しても武器はなくならないし(なくなっても、大して痛くはないけど)、強化札は効果が微妙すぎるから金出してまで使おうって気にならないし。
おまけに、coinはゴールドファーマーの方々が大量生産して、ゲーム内にばら撒かれる。それでさらにcoinが市場に溢れかえる。こりゃインフレが進行するわけだわ。
金とcoinに兌換性を持たせたのも失敗だったんじゃないかなあ。一番の顧客になりそうな廃人は有り余るcoinで金を買い漁るから課金しないだろうし、ライトユーザーもアホみたいに金つっこまないだろうし。一番安い騎乗アイテムが2500円(税込)とか、正常な神経の持ち主は引くわ。

それを示すかのように、完美は新規と引退のサイクルが非常に早いそうで。確かにキャラはサクサク育つけど、やれることが少なすぎるんだよね。運営は明らかに力の入れどころ見誤ってる気がするし、イベントは使いまわしのループだし。開始半年で早くも末期感が漂ってるMMOって、故・ときめもオンラインくらいじゃないか?
結婚システムなんてどうでもいいから、さっさと自宅建築を実装しやがれですよ。


て、ゲームについてが長すぎるな俺。
今日の結論:完美は、キャラメイキングで9割が終了

ジョージワシントン

「競馬はロマンだ」と声高らかに言及すれば失笑を買うのが、昨今の競馬である。
それほどまでに、競馬はマネーゲームの場と化している。
良血馬は投機対象物件となり、種牡馬入りして成功すれば、購入金額の数十倍もの金を産み出してくれる。もちろん、競走馬として一定水準以上の良績を残すのが大前提ではあるが。
レースと交配による馬匹改良。
競馬はこの両輪を軸として回り続け、天文学的な泉布をばら撒きながらその回転の度合いを強めている。平たく言ってしまえば、競馬の進化は市場経済の活性化に連結する、というわけである。
日本は世界でも稀な高額賞金国であるため、名誉に殉ずるホースマンよりも、レース賞金をどれだけ稼げるかに重点を置く関係者が多数を占めているように思う。内国の名馬はもとより、毎年導入される種牡馬が使い捨てのように扱われている現状を見るに、あながち的外れともいえないのではないだろうか。
これが海外、とりわけ欧州においては価値観が逆転する。未だにあちらは、レースの格を重んじる傾向にある(とは言っても、マイル~中距離のステイタスが高くなっている世界の潮流に乗ってはいるが)。当然ながらそれに目を付け、名馬を量産するような名種牡馬を売り込む生産者も存在する。彼らは世界の主要な大レースを、後のグレートサイヤーを売り込むプレゼンの場として利用している。
その最たる例が、クルーモアスタッドのビジネス展開であろう。
クルーモアが目指しているのは、中距離を軸としてオールアラウンドに活躍する名馬である。万能の力量を有する精子を求めて、世界中から種付けのオファーがかかるのを待つために。
どう見ても欧州の芝血統の馬をBCクラシックに毎年送り込んでいるのは、そういう背景があるからである。芝でもダートでも通用する能力、とりわけハイレベルな凌ぎあいが展開されているアメリカにおいて結果を残せば、絶好のセールスポイントとなるのである(この場合、アルカングのことは忘れてあげること)。
一流の成績、そこに流行の血統構成が加われば、「商品」として全く問題は無い。あとは金が落ちてくるのを口を開けて待っていればいいだけである。
まったくもって、世知辛い。

ある一頭の馬がいた。
父親は、今やサドラーズウェルズに代わって欧州の競馬シーンを席巻しつつあるデインヒル。しかしデインヒルは2003年に逝去している。
兄には2002年のワールドシリーズチャンピオンのグランデラがおり、血統のよさは折り紙付きである。
ジョージワシントン。それが彼に付けられた名前である。
自身も優れた競走能力を有し、アイルランド2000ギニー、クイーンエリザベスII世Sをはじめとする4つのGIレースに勝利している。2006年のBCクラシックで6着に敗れたのを最後に現役を引退。悠々自適の種牡馬生活へと入った。
しかし、予期せぬ事態が彼を襲う。
いくら種付けを行っても、受胎しない。
検査の結果、生殖能力に異常があることが判明したのだ(とは言ってもシガーのように完全な不妊症ではなく、わずかながらも受胎が確認されてはいる)。
競馬とは、絶え間ない生産の輪廻の上に成り立っている。では、その輪から外れた者はどうするのか。
欠陥がある以上、どの国へも売ることはできない。かと言って無駄飯を食わせる余裕もない。となると、辿る道は一つ。
現役復帰、である。

一旦繁殖入りした馬の現役復帰という例は、非常に稀というわけでもない。現に、アラジの子を宿した状態でGIを勝ったウインドインハーヘアの例もあるのだから(とは言っても、これはどういう経緯で種付けが行われたのか明瞭ではないのだが)。
日本においても、牝馬として初のダービー制覇を成し遂げたヒサトモの例がある。彼女は子出しが悪く、繁殖成績もまったく振るわなかった。
そのため、引退から10年の時を経て地方競馬で現役復帰を果たし、南関東で2勝を上げている。
だが、10年の空白期間が彼女から競走に耐えうる心肺機能を奪い去ったのか、ヒサトモは調教中に死亡することになる。
もっとも、当時の日本は戦時中ということもあり、馬資源が圧倒的に不足していた時期でもあった。1ヶ月の間に5戦というローテーションも苛酷ではあるが、これまた当時の価値観からすればごく普通の使い方なのである。

ジョージワシントンは現役のステージに戻ってきた。
入れ替わるようにスタッド入りしたのは、なんと3歳になったばかりでクラシック有力候補と目されていたホーリーローマンエンパイア。父が同じデインヒルということで、代打という形というわけだ。
同期の馬たちがクラシックを戦っている中、彼は年上の牝馬たちの胎に種を注いでいたのである。まあ、これはこれで幸せなのかもしれないが。
若き性豪の誕生はさておき、この話の主役はジョージワシントンである。
6月のアスコットで彼は復帰緒戦を迎える。レースはGIクイーンアンS。堂々の一番人気である。しかし、ジョージワシントンは4着。人気を裏切る形となった。
それ以降も勝てないレースが続く。
エクリプスS3着。
ムーランドロンシャン3着。
大敗はしないものの、徐々に勝ち馬との着差は開いていく。走りに精彩を欠いているのは明らかだった。
欧州競馬が終わり、クルーモア陣営はジョージワシントンをアメリカへ送り込む。
前年に大敗した、BCクラシックへ。

というわけで、今年のブリーダーズカップ(以下BC)である。
新たに3レースが加わり、より一層カオス感が強まったように思えるBC。一気にカテゴリーを増やしすぎて、却ってレースバリューが低下しちゃうんじゃないかと他人事ながら心配になる。
それでも、ドラマは生まれる。
ジュヴェナイル、ジュヴェナイルフィリーズ共に無敗の王者が誕生したり。
スプリントでは、一番人気を背負ったMidnight Luteが、短距離戦にもかかわらず4馬身半という圧勝劇を演じたり。
はたまた、Smart Street産駒が2つのタイトルを掻っ攫ったり。
しかもその2つのタイトルが、最高峰ともいえるクラシックとターフだったり。
そして……そのクラシックでCurlinが栄光のゴールを駆け抜けた一方、天国への階段を駆け上がった馬が1頭いたり。

ジョージワシントン、予後不良。

競馬はビジネスである。
これは今やグローバルスタンダードと断じてもいいだろう。
だがそれを支えるのは、やはりロマンなのではないだろうか。
戦中の競馬場で没した前述のヒサトモだが、半世紀の時を越えた今もその牝系は脈々と続いている。
いや、続いているばかりではない。
彼女の6代後の子孫には、かの名馬トウカイテイオーがその名を連ねているのだ。
競馬という物語は、どこに伏線が張られているのか皆目見当がつかない。だからこそ面白い、という声もあるが。
僅かに残されたジョージワシントンの子供たちがどんな物語を紡ぐのか、それはそれで楽しみである。

実話怪談の今後について憶想

最初に。
この文章は、参考書籍を用いずに書かれた、あくまでも俺の主観的な憶想である。明確な裏づけがあるわけでもないし、ましてや素人の戯言である。それを念頭に置いて読み進めて頂きたい。

社会の情報化が進むにつれ、実話怪談もその形態を変容しつつある。
怪談といえば、政治情勢や芸能に等しく、人々の口の端に上るゴシップジャンルである。にもかかわらず、胡散臭い存在とされていたのは、往々にして主観的で報道性を持たず、また理論的な証明や裏づけがなされ難いという性質を怪談が備えていたからである。多くの怪談は、フォークロアとして口頭伝承されるに留まっていた。
テレビやラジオなどで時折特集が組まれてはいたものの、単方向的な情報発信だったため、広く知れ渡る奇譚の母集団自体が少なかった。真贋を見極めるには、情報量が不足していたのだ。
転機は、インターネットの普及であるように思う。
殊に、web2.0の概念による部分が大きい。
無数に散らばる怪談の大半は、聞き手の数が限定された範囲内でのみ語られるものであった。それが、掲示板やブログが普及し、誰でも怪談を披瀝できる環境が形成されたため、情報の享受者が同時に情報の提供者ともなり得たのである。
「私だけの怪談・奇談」は、ネット上に放たれた時点で「多くの人が知っている怪談・奇談」となったのである。
だが問題もある。話の類型化である。
ディテールやシチュエーションなどの細かな相違はあるものの、梗概が似通った話というものが量産されてしまう。これは、情報の累積が進行する過程では不可避の状況ではあるが、そうなると今度は、マンネリ化が進み、それを打破するような斬新さを持つ奇譚が希求される。やがてそれも飽和化すると、今度は語り手の技量に懸かってくる。さらりと書けばありきたりと思われてしまうような話を、如何にして恐怖を煽る「芸能(そう、これはもう芸と呼んでいいだろう)」へと昇華させるか。リアリティが不完全なノンフィクションを、真に迫った描写で書き綴り、読み手の心を抉るこの作業、いやはや難儀としか言いようが無い。

ふと思うのが、実話怪談というジャンルが「先祖帰り」を起こしているのでは、ということである。
古い時代、怪奇譚の多くは、説話集の中に散見される情報源不詳のものであった。歴史上の有名人物にまつわる奇談にしても、伝説じみたものや風聞めいたニュアンスが少なからず込められている。ここには、古代から中世に至るまで日本の風土を支配した超自然的な存在、端的に言えば亡者の「祟り」に対する畏怖の念が露見している。
昔の日本人は、本能的に闇を畏れ、亡者を畏れ、人の強い念を畏れたのだ。
また、民間においては、専ら口頭による情報の拡散があったと思われる。中には、伝言ゲームのように内容が捻じ曲げられ、あるいは改竄され、最終的にはほとんど別の話となって語り伝えられた怪奇譚もあったことだろう。遠くから伝わった話が、さも卑近な者の体験談であるかのような、所謂「FOF(Friend Of Friend)」状態を引き起こしたことも、十分に考えられることである。
情報伝達の不完全さ、未成熟さが生み出す、ごく自然な現象である。
では現代はどうだろう。
実は、さほど変わっていなかったりする。いや、話のFOF化が益々進んでいるとも思えるのである。
先述の通り、情報の共有化が進み、誰もが多くの話のストックを有するに至っている。これを、積極的に怪談と関わらない者に「実は俺の友達が体験した話なんだけど」と騙り、言い伝えたらどうなるか。この先は言うまでもないだろう。実社会のみならず、情報の源泉であるネット上においても、同様の現象が起きている。時には、ペーパーメディアで公開された怪談が、ネット上へ「輸入」されることもある。真贋の境界線が、非常に曖昧なのである。
かつて、情報を一般に提供するのは限定された層であった。それゆえ、取材の末に執筆された「実話怪談」は説得力を持っていた。
それが今では、出所不詳の「実話怪談」が瀰漫し、真偽をつまびらかにする術が無いのが現状である。(もっとも、このことは取材にも言えるのだが……情報提供者が「これは真実なんだ」と声高に主張してしまったらどうしようもない。彼の者の良心に委ねるしかないのだ)

ネット社会は、終端が見通せないほどの発展を続けている。
今後も、有象無象のソースが濫立し、さぞかし我々を愉しませてくれることだろう。しかし、その真偽の程を確かめる手立てはどこにもないのだ。せいぜい、振り回されないように注意するくらいだろうか。


そろそろ、自分でも何が言いたいのか分からなくなってきたのでこの辺で。