カオス

 知人に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を貸そうと思い、はてどこに仕舞ったのかと部屋を見回してみた。

bokkoshiroom.jpg


 なんじゃこりゃ。
 人間の住処とはとても思えない。
 屋根裏や物置のほうがよっぽど片付いてる気がするぞこれ。

 なんてかもう、カオス。そう一言でこの状況を表現するなら、カオス以外にありえない。
 服の上に本が積み重ねられ、さらにその上に服、さらにさらにその上に本の山という、何だかよく分からないウェハースが形成されている。
 のみならず、ゴミがひどすぎ。ほら、よくあるじゃないですか異常者の住処の描写。カップラーメンの器の中に変色して泡が立ってる汁が残ってる、とか。まさにあの状態。新しい生命が生まれててもおかしくない。
 漁ってみると、出てくるわ出てくるわ。脱ぎちらかした靴下は基本として、飲みかけのコーヒーは上澄み液と沈殿物が分離しちゃってるし、何年前に貰ったんだか分からない(恐らく結婚式の返礼品)石鹸だとか、ずっと昔に交換したメモリだとか。部屋が丸ごと思い出の宝石箱である。て、やだよそんな宝石箱。
 こりゃヤバイね。物臭にもほどがある。なんとかせねば。

 え、本はどうしたって?

 見つかるわけないだろ、こんな状態で! 

媒体に投影された俺は俺じゃないわけで。

 通い慣れた通勤路に、猫の死骸を見つけた。
 真っ二つに断ち切られた胴からは内臓が零れ落ち、アスファルトを赤黒く濡らしていた。
 車のタイヤに身を引きちぎられ、心臓が鼓動を止めるまでの間に、この猫に何か考える時間はあったのだろうか。
 自らの亡骸が晒される事に、憤りと悲哀を感じたのだろうか。
 無論、猫が斯様な思案をしていたとは考えていない。考える能力が無かったというだけではない。咄嗟に訪れた死を認識する暇も、また常日頃死を見つめる機会が無かった。そういうことだ。

 閑話休題。

 俺は、写真やビデオカメラに収められた自分の姿や、何がしかのメディアに録音された自分の声を聞くのが嫌いだ。旅行先で撮ったビデオの上映会などが催されると、そそくさと退席するくらい嫌いだ。
 さらに言えば、自分の肉体が確かにあった痕跡が、目に見える形で残るのが嫌いなのだ。自分が存在していた証拠、ではない。もしそこまで含まれるのなら、俺はこうして駄文や落書きを世に晒していたりはせず、山奥で霞を喰いながら生きているに違いない。
 いっそ、死んだ後の亡骸も、跡形も無く消し去って欲しいくらいだ。
 土葬はまずアウトだ。土の中で不可視とはいえ、微生物に自分の抜け殻が分解されていくのは堪えられない。
 火葬にしても、焼きあがった俺の骨を坊主が箸でいじくりまわして
「ほら、これがのど仏ですよ。仏様があぐらをかいて座っているような形だから、この名が付いてるんですよ。それにしても、綺麗に残ってますね」
などと説教するのも嫌だ。俺の骨はレゴブロックじゃない。
 
 そんなわけで、理想の葬られ方を考えてみた。ついでだから、理想の葬式も考えてみた。

 灰色の厚い雲に覆われた空は、今にも雨が降り出しそうで、あたかも故人の死を悼み悲しんでいるかのように見えた。
 斎場はもうもうと紫煙に包まれていた。参列者は誰一人として喫煙していない。煙は焼香台から立ち上り、やがて形を崩して拡散し、斎場を白く包み込んでいた。焼香盤には、ほぐされたマルボロの葉が詰め込まれていて、その上にはタバコが灰となって積もり重なっている。
 本来ならばあるはずの読経の替わりに、Zilchの「Space Monky Punks From Japan」のギターソロが大音量で流れている。
 いずれも、故人が生前に望んだ葬儀形式である。
 祭壇には、在りし日の故人の遺影が掲げられている。もっとも、写真を嫌う性格だったため、免許証から取り込んだ顔写真を使ったハメコミ合成を使用しており、顔と喪服のピントが合っておらず、かなりちぐはぐな印象を受ける。
 参列者には椅子も座布団も用意されていない。オールスタンディグ形式である。神妙そうにしているものは居ない。号泣する女の姿も見えるが、金を出して雇った「泣き女」であるのは周知なので放置されている。一応のムード作りは必要なのだ。
 喪主も僧侶もいない葬儀は、誰かが「そろそろ行かね?」と言い出した頃にダラダラと終わる。参列者は棺を押して次の会場へと向かう。棺にはキャスターが取り付けられている。何事も合理性が重要だ。
 棺を中心とした一行は、河原へとたどり着く。空は相変わらずの曇天だが、所々虫食いのように晴れ間が覗いている。
 予めすり鉢状に掘り込んだ地面の中心に棺が運び込まれる。既に爆薬が等間隔で配置されており、かなり遠くまで導火線が伸びている。
 棺の中には、遺品と一緒に爆薬が詰め込まれている。
「故人のお顔が見られるのはこれが最後です」
とは言っても、爆薬だらけで顔なんざまるで見えない。最早、何を吹き飛ばすのかすら分からない状況である。
 参列者は遠巻きになって、「これから」を見守る。
 スイッチで一気に、などと無粋な真似はしない。導火線に火が入る。
 火花が最初の爆薬に届くまでの束の間、参列者達は合掌して冥福を祈った。中にはデジカメを構えている者もいるが、それを咎める者はいない。好きなように、「その瞬間」を待てばいいのだ。
 火がすり鉢の縁の向こうに消えた次の瞬間、破裂音と共に最初の爆発が発生した。
 間を置かずに、配置された火薬に次々と誘爆し、轟音と共に巨大な爆炎が天を衝いた。
 参列者から喝采が巻き起こる。ブラボー。よく見れば先程の「泣き女」も胸をはだけて奇声を上げている。個人的嗜好とビジネスは別物だけど、もう少し空気を読んで欲しいものだ。
 やや時間を置いて安全であることを確認し、参列者は爆心へ向かう。まさに木っ端微塵。故人の亡骸も棺も遺品も、跡形も無く吹き飛んでいる。
 これぞまさに、故人が望んだ「爆葬」の理想形である。
 黒ずんだ地面の上に土が被せられ、元通り平坦にならしていく。
「俺に墓標はいらない」
というどこぞの伝承者のような台詞を吐いた故人の遺志を尊重し、処理が終わると何事も無かったかのように参列者達は三々五々散っていく。
 午後2時。雲の切れ目からは弱弱しく秋の日差しが漏れ差していた。

 というのが理想なのだよ、と知人に力説したら「安心しろ、ゴミ処理場の焼却炉に放り込んでやるよ」とありがたい言葉を頂戴した。
 俺の扱いは、路上でくたばった犬猫と同等のようである。夢も希望もあったもんじゃねえ。

「お前のキャラに合わねー」とか言うな、て内容

 最近、色々な素性の人と接するようになってふと気付いた。

 会話は最も手軽で最も身近なコミュニケーション手段だ。
 しかしそれは大概の場合「言葉を行き交わさせている」だけで終わっている。当たり障りの無い、時事ネタ、趣味、カルチャー、一般教養的な知識。
 心の水辺の奥底を見透かすことが出来るなら、そこには大量の「本質」が沈殿しているのが見えるはずだ。本音とはまた違う、各々が決して表に出すことなく抱え続けている本質が。
 その「本質」は、口の端に容易に持ち上げられることは無く、虚しく水を吸い続けて溺死体のように膨れ上がって水面を漂っているだけである。
 人は自分の根幹を見せない。気恥ずかしさが起因している場合もあるだろう。が、大抵の場合は、曝け出す恐怖に身を縛られているからだ。
 ここでこんなことを言ったら、この場はどうなるのだろう。
 こんなことを曝け出したら、この人はどういう反応をするのだろう。
 その後、自分はどういう顔をしてこの人と接し続けなければならないのだろう。
 気軽に味を楽しむだけなら、ジャンクフードでも全く構わない。常にヘビーな食傷に包まれた人生を望んでいる人は、かなりのマイノリティだろう。
 だからこそ、他人の本質を覗けたとき、俺は「その人」を知った歓びよりも遥かに強い衝撃と畏怖に襲われる。外面との落差が大きいほど、その度合いは一層強くなるのは多言を要しない。
 本質を知る、そのものに対する怖さではない。俺の中の本質と並べて俎上に乗せて対比した時、いかに自分が空虚な人間か思い知らされる事に恐怖するのだ。
 今まで、何も考えず、何も得ようとせず閉鎖的に生きてきた。そのツケがこの歳になって一気に降りかかってきている。年齢相応に自分の本質が育っていないのだ。
 ポリシーも思想も無い。だから持論が無い。あるのはクソの役にも立たない知識と、相手に同調しているように見せかける術だけだ。薄っぺらなペーパー人間一丁上がり、である。
 目の前に、ドアノブが無い一枚のドアがあったとする。指を引っ掛ける取っ掛かりも無く、自力で開けることは出来ない。
 そこに横から何者が現れ、ドアノブを握った手を俺に差し伸べる。その人物が口を開く。
「これを使ってドアを開ければ、お前が望む人の心底を何もかも見ることが出来るぞ」
 恐らく、俺はドアに背中を向けて立ち去るだろう。人の本質を見るということは、等しく自分の本質を反射した鏡を見ることであり、直視できない現実をまざまざと見せ付けられる事だから。
 焦って動こうとはする。手をばたつかせ、必死に足を回転させて前へ進もうとする。心臓発作寸前のマラソンランナーみたいに。
 マラソンレースは走り続けていればいつかはゴールへ辿り着く。けど、人生は別だ。必死になって走り続けていても、全くの見当違いの方向に向かっていたり、直進しているつもりでも実はオーバルコースの上を走っていただけで、気付いたらまた元の場所へ逆戻りしていたりもする。正解のルートは無い。だからこそ、どこへ進めばいいのか分からなくなり、無為に闇の中で横臥するだけなのである。
 最近、他人が妬ましく思えるときがある。俺が持っていない「本質」を持っている他人が。その度にまた、出口が見えない迷宮に迷い込みそうになり、自己嫌悪に陥ったりもする。
 ホント、つまらん「大人」に育ったもんだ。子供の頃の俺、ゴメンな。俺、お前が思い描いてる理想像と全く違う、空っぽの人間になっちまってる。
 どこに行けばいいんだろう、俺。最近、歩いてる道の一歩先が全く見えない。

サヨナラ、ラムタラ

 3日、新日高町静内のアロースタッドに繋養されていたラムタラ(牡14)が、英国に売却されることが明らかになった。
 シンジケートの関係者が明らかにしたもので、買い戻し価格は24万ドル(約2750万円)。6月中旬に行われたシンジケートの臨時総会における、書面決議で決定した。
 今シーズンの種付け終了後に英国へ移動する。

ソース:http://www.netkeiba.com/news/?pid=news_view&no=14499&category=D

 正直、アメリカ遠征馬2騎が好成績を収めて無事帰国した以上に安堵したニュースである。
 ラムタラといえば、1990年代の欧州において最もファンタスティックなパフォーマンスを見せ付けた馬である。
 父は名馬ニジンスキー、母は英オークス馬スノウブライド。鼻血が出るほどの良血である。競争能力も半端ではなく、通算成績は4戦無敗。その中には史上2頭目、無敗としては史上初となる欧州三冠(英ダービー、キングジョージ、凱旋門賞)が含まれている。
 まさに天衣無縫、不世出の名馬である。
��余談だが、ラムタラの国際クラシフィケーションは130。パントルセレーブルとジェネラスの137、スワーヴダンサーの136と比較するとあまりに低評価である。これは、ラムタラに圧勝歴が無かったことと、対戦相手に強豪が少なかったことに起因するようである)
 そのラムタラを日高の生産者達が購入すると聞いたときは眩暈がした。そんな名馬を日本が所有していいものか。価格を聞いて、再び倒れそうになる。
 3000万ドル。邦貨にして30億円超。サラリーマン30人分である。
 この導入の際、気がかりになったことは、「これでこけたらどうするのか?」ということであったが、まさにそれは現実となってしまった。
 9年の供用で、産駒の最高成績はG3まで。最近ではオープンに駒を進める産駒も見当たらなくなり、まさにジリ貧状態の種牡馬成績だった。
 それ故、冒頭の安堵である。この名馬の血が継続する可能性が、ひとまずではあるが絶たれずに済んだのである。
 
 かつて日本は「血の墓場」と揶揄されていたのは周知の事実かと思う。種牡馬が成功を収めればその血を手放したり還元することをせず、日本国内で腐らせて終わらせてしまう。かつて、テスコボーイがセンセーショナルな成功を収めたのを契機に、こぞってプリンスリーギフト系種牡馬を買い漁った結果、この系統は今や欧州においては絶滅寸前である。そして、今やサクラユタカオーの直系のみとなったこの血統が、本家に還元される可能性はほぼ無に等しい。
 最近では、ダンシングブレーヴが近い例だろう。後継種牡馬は、欧州供用時代の代表産駒であるコマンダーインチーフ、ホワイトマズルを含めて全て日本に集結している。これらが日本で埋もれたまま終わるのは惜しい気がしてならない。
 逆に失敗した場合はというと、これも同じく母国へ送還されること無く極東の土となるケースが大半を占めていた。グランディの失敗を出すまでも無く、「もしこの馬が日本に来ていなければ……」と思うケースはそれこそ枚挙に暇が無い。
 還元と再生機会。この二つを欠いた日本の馬産はひどく中途半端で、最も悪質である。香港のように馬産を一切放棄するでもなく、競馬先進国のように独自の血統を伝統的に育てつつ世界の潮流を作るでもない。ただひたすら、種牡馬といういわば資源の鉱脈とも言える存在を、泉布をばら撒いて買い漁り、使うだけ使った後は次世代に繋ぐ努力を放棄してまた新たな血を買い漁る。ひたすらこの繰り返しであった。
 30年前以上前に導入された種牡馬の直系で、現在も生き残っておる系統といえば、パーソロンとテスコボーイくらいなものだろう。他はその悉くが歴史の中に埋葬されてしまった。これで「世界に通用する馬作り」などとお題目を掲げていたのだから、笑い話にもならない。
 その状況が、近年になってようやく変化してきた。
 サンデーサイレンスの直系はシャトル種牡馬として海を渡り、世界にその血を拡散させている(欲を言えば、一枚落ちランクの種牡馬は輸出して欲しいくらいだ。ローゼンカバリーやサイレントハンターあたりが欧州に渡ってくれれば、結構面白いことになりそうな……)。
 一方で、日本では失敗に終わった種牡馬も、その繁殖生命が尽きる前に早々に見切りをつけられ、母国あるいは他の地で再生の機会を得ている。
 ドクターデヴィアス、ヘクタープロテクター、ジェネラス。いずれも、日本で憂き目をみたまま終わるには惜しい馬ばかりであった。もっとも、ジェネラスは欧州ではなくトルコに渡ってしまったが、彼の地で革命的な成功を収めないと誰が断言できようか。
 その流れの中で、今回のラムタラ売却である。価格は24万ドル。購入時の10分の1にも満たない金額だが、イギリスで供用されることが救いであろう。
 ただ気がかりなのは、ラムタラが本当に欧州で良績を収めることが出来るのかどうか、である。というのは、ラムタラは1シーズンだけ欧州で供用され、産駒をターフに送り出しているのだが、いずれも鳴かず飛ばずだったからである。
 ラムタラの血統表はガチガチに主流血統で固められている。父は言わずもがな、母にしてもその父はこれまた大種牡馬ブラッシンググルーム、さらに遡ると御大ノーザンダンサーや源流ファリスへぶち当たる。所謂「血の袋小路」がラムタラの中に出来上がってしまっているのである。
 影響力が強い血ばかり集めると、いずれ飽和を引き起こして活力は失われる。良血×良血は必ずしも良いわけではない。となると、チリやアルゼンチンあたりに輸出されたほうが、よっぽど活躍できたのではないだろうか。
 と、好き勝手に書いてみた。て、すんごい長くなった。自分でも驚き。