「お前のキャラに合わねー」とか言うな、て内容

 最近、色々な素性の人と接するようになってふと気付いた。

 会話は最も手軽で最も身近なコミュニケーション手段だ。
 しかしそれは大概の場合「言葉を行き交わさせている」だけで終わっている。当たり障りの無い、時事ネタ、趣味、カルチャー、一般教養的な知識。
 心の水辺の奥底を見透かすことが出来るなら、そこには大量の「本質」が沈殿しているのが見えるはずだ。本音とはまた違う、各々が決して表に出すことなく抱え続けている本質が。
 その「本質」は、口の端に容易に持ち上げられることは無く、虚しく水を吸い続けて溺死体のように膨れ上がって水面を漂っているだけである。
 人は自分の根幹を見せない。気恥ずかしさが起因している場合もあるだろう。が、大抵の場合は、曝け出す恐怖に身を縛られているからだ。
 ここでこんなことを言ったら、この場はどうなるのだろう。
 こんなことを曝け出したら、この人はどういう反応をするのだろう。
 その後、自分はどういう顔をしてこの人と接し続けなければならないのだろう。
 気軽に味を楽しむだけなら、ジャンクフードでも全く構わない。常にヘビーな食傷に包まれた人生を望んでいる人は、かなりのマイノリティだろう。
 だからこそ、他人の本質を覗けたとき、俺は「その人」を知った歓びよりも遥かに強い衝撃と畏怖に襲われる。外面との落差が大きいほど、その度合いは一層強くなるのは多言を要しない。
 本質を知る、そのものに対する怖さではない。俺の中の本質と並べて俎上に乗せて対比した時、いかに自分が空虚な人間か思い知らされる事に恐怖するのだ。
 今まで、何も考えず、何も得ようとせず閉鎖的に生きてきた。そのツケがこの歳になって一気に降りかかってきている。年齢相応に自分の本質が育っていないのだ。
 ポリシーも思想も無い。だから持論が無い。あるのはクソの役にも立たない知識と、相手に同調しているように見せかける術だけだ。薄っぺらなペーパー人間一丁上がり、である。
 目の前に、ドアノブが無い一枚のドアがあったとする。指を引っ掛ける取っ掛かりも無く、自力で開けることは出来ない。
 そこに横から何者が現れ、ドアノブを握った手を俺に差し伸べる。その人物が口を開く。
「これを使ってドアを開ければ、お前が望む人の心底を何もかも見ることが出来るぞ」
 恐らく、俺はドアに背中を向けて立ち去るだろう。人の本質を見るということは、等しく自分の本質を反射した鏡を見ることであり、直視できない現実をまざまざと見せ付けられる事だから。
 焦って動こうとはする。手をばたつかせ、必死に足を回転させて前へ進もうとする。心臓発作寸前のマラソンランナーみたいに。
 マラソンレースは走り続けていればいつかはゴールへ辿り着く。けど、人生は別だ。必死になって走り続けていても、全くの見当違いの方向に向かっていたり、直進しているつもりでも実はオーバルコースの上を走っていただけで、気付いたらまた元の場所へ逆戻りしていたりもする。正解のルートは無い。だからこそ、どこへ進めばいいのか分からなくなり、無為に闇の中で横臥するだけなのである。
 最近、他人が妬ましく思えるときがある。俺が持っていない「本質」を持っている他人が。その度にまた、出口が見えない迷宮に迷い込みそうになり、自己嫌悪に陥ったりもする。
 ホント、つまらん「大人」に育ったもんだ。子供の頃の俺、ゴメンな。俺、お前が思い描いてる理想像と全く違う、空っぽの人間になっちまってる。
 どこに行けばいいんだろう、俺。最近、歩いてる道の一歩先が全く見えない。

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